六時すぎ起床。
午前中、あーちゃんと散歩。以前、アオサギを見かけた畑ふきんに差しかかり、今日はおおきな鳥さんおるかな?と言いながら、道路に目を向けるとすぐそばにいた。わっと後ずさる。ちかくで見るとおおきいのだ。あーちゃんがすぐに駆けよったため、アオサギは低く飛びながら、畑のなかほどへ逃げた。そして動かなくなったアオサギを、一メートル幅ほどのドブ川で隔たれた道端にしゃがんで、わたしたちはずっと見ていた。
畑にはモンシロチョウが数匹飛んでいて、れんげが咲いている。アオサギはなにを食べて生きているのだろう。もしやチョウ? ドブには幅のせまい石板が、橋としてかけられていて、あーちゃんはそれを渡りたがる。畑いったらあかんよ、と制しながら、自分が小学校に入るか入らないかくらいの頃、住んでいたアパートのちかくにあった、れんげの咲く畑であそんでいたことを思いだす。その畑の持ち主である老婆に、叱られて追いかけられたことも。怖かったなあ。それなのに、わたしは何回もその畑であそんだ。れんげの花で冠をつくりたかった。
ここはひとの畑やで、ひとのお家に入ることになってまうでね。かあちゃんも、こういう畑にちいさい頃、入ったことあるわ。そしたら、おばあちゃんに怒られた。そう、あーちゃんに言うと、「え、このはたけのこと? かあちゃんも、ここにはいったの?」と言われて、ちがうよ、ここよりとおく、むかしわたしが住んでたとこのちかくのこと、と返す。
「おばあちゃんに、なんておこられた?」とも聞かれたが、それはしっかり憶えてなくて、「ここであそんどったらあかんやろ!」みたいな感じかなあ、と生返事になった。
あーちゃんがつんだ花がくったりしていて、水に入れるため帰ろうとなる。その後シャボン玉したら気絶しそうに眠い。夫の勧めで昼風呂に入った後、腹痛に見舞われ、予定どおりご飯をつくるのは無理、となる。外がさむかったので、身体が冷えたのだろう。子ども用のご飯と同時に、味噌煮込みうどんをつくっていたら、段どりがわからなくなる瞬間がたびたびあって、出汁が何回も干あがりそうになっていた。しんどくて台所で叫ぶ。
細ぎれにできた時間に、『〈子ども〉のための哲学』を読むが、頭にぜんぜん入ってこなかった。
夕食 味噌煮込みうどん
窓全開でシャボン玉する。風がつめたい。さむい、さむいと言いながら、わたしは部屋のなかから、あーちゃんの様子を見ていた。
常備菜のピーマンきんぴら、じゃがいもソテー、ツナそぼろをつくる。
散歩に行こうと外にでて、さむくてダウンを取りにすぐ戻る。どっちに行きたい?とあーちゃんに聞いてみたり、なんとなく、いつも通る道と、ちがう道を歩いてみる。けっきょくはいつもの道につながっていた。苔のことを「コゲ」と言う。つないだ手を振りほどこうと、ちいさな手が掌のなかでもやもやと動きだすことに、いらだってしまう。マンションの玄関ぶぶんで、ひとりなわとびをしていた、中高生くらいの女の子に「こんにちは」と言われ、すこしうれしい気持ちになった。
幼稚園から、動画の配信をはじめたというメールが届く。 各地でそういう対応があることをSNSでちらほら見かけ、でもあまりデジタルにつよいという印象がなかったので、期待はせず、また通える日を待とう……と思っていた。そのメールを見たしゅんかん涙ぐんでいたが、先生の顔を見られただけで、なんだかうれしく泣けてくる。担任の先生以外の、先生たちの名まえをはじめて知る。むしろ担任じゃない先生に会うことのほうが多いのに(日中過ごす園と、預かり保育の場所がちがうため)、これまで知る機会がなかったのだった。
動画にたいしはずかしがって、あーちゃんはわたしの腕に、ずっとしがみついていた。身体が熱い気がして、検温するが平熱。うっすらと汗ばんでい。
ふたたび、窓全開でシャボン玉。もうほとんど、部屋のなかでシャボン玉している状態だった。飛んでいるシャボン玉に息を吹きかけ、すきな方向に動かすあそびがはじまる。シャボン玉、意外といろんなあそびかたがある。
永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)を読む。この本は、十年ほどまえに、川上未映子さんがお薦めしていたことがきっかけで買ったのだが、やっと手にとった。本を読んで哲学を勉強するのだ、と思って読みはじめたらすぐ、本を読むことが哲学を勉強することではない、というような文章に出会う。はやく読めばよかったとも思うけれど、十年かかってそのことを、わたしはやっと知ることができてよかった。
夕方ごろの、あーちゃんのテンションがいつも高い。高すぎる。わたしと夫は夜に向けて、どんどん沈んでいくばかりなので、その対応に骨がおれる。あーちゃんはとっくに昼寝しないし(一歳半からしなくなった)、つかれすぎてそうなってしまうのだろうか。わからない。
夕食 ハヤシライス(二日め)にオムレツ(夫作)のせる、小松菜おひたし
カレンダーを見て、二十日ってなに、と思う。もう五月やん。しかし、ゴールデンウィークじゃないゴールデンウィークって(どこにもいかない、というくらいの意味で)、はじめてのことだなあと思う。自分だけでなく、すべてのひとにとってなのだが。
昨夜つくったコラージュを見る。素材を足そうか迷っていたぶぶんは、やめたほうがいいとすぐ判断できた。やはり、シンプルなほうがすき。
今日は占星術をベースにした、淡の間さんのカウンセリングを受けた。思っていたより、占いという感じはしなかった。予約をしたのは一ヶ月まえのことで、お話してみたいという、いくぶんミーハーな気持ちもあって、これという相談もない状態で申し込んだ。それがいまや、先行きのみえない、もやもやを抱えている。
話はLINE通話でする、とあったのにビデオ通話と勝手に思いこんでいたわたしは、朝から自分の机のうえを整頓していた。物をほとんど、床に移動しただけだけど、なにも置いてない机っていいな、と思う。
時間がないから、と昼食に食べたカップラーメンが塩っ辛い。思わず夫に、これしょっぱいよね?と言うと、彼もひと口めから、同じように感じたらしい。レトルトやインスタント食品、楽したいときは食べるのだけど、味が濃すぎるし、どんどん身体が受けつけなくなってきている。楽したいのに。
淡の間さんから「相談はありますか?」と言われたとき、うまく話せたとは思えないけれど、それでもほんとうに受けてよかったと思う。なぜもやもやするのかが、自分のなかではっきりしたから。それがもっとも、腑におちたことだった。誘導されてする、” ゆる瞑想 “も、とてもよかった。
通話のさいちゅう、あーちゃんが「おそと、あめあがったかな? いっしょにおさんぽ、しーへん?」と、なんども言いにきた。仕方がないとはいえ、夫と子どもがすぐそばにいるなか、こういった時間を過ごすことは、以前の自分では考えられなかった(予約した時点では、昼間はひとりでいられると思っていた)。
カウンセリング後は、「おおきなとりさん」を探しに散歩。今日は会えず。
あーちゃんはすべり台をすべりまくっていた。たぶん百回くらい、と夫と言いあう。
夕食 ハヤシライスに、チーズオムレツ(夫作)のせる
シャボン玉をするため庭にでる。
あーちゃんは「とうちゃんもいっしょにやろ」と言うが、夫は「俺いいわ」という感じ。わたしもさいしょは、シャボン玉にたいして、そうだったなあと思う。なんだか吹く気も起きなくて、ぼーっと眺めていた。それが吹きはじめると、しだいに、たのしくなってきたのだった。わたしすごいおおきいの、つくれるんやて、と吹くがすぐ弾けてしまう。夫の目を意識しすぎか。飛んでいるシャボン玉を、吹き棒でキャッチして、さらに息で吹き飛ばす……というのを繰り返すのもたのしいのだが、夫にうまく説明できない。あーちゃんとはおなじみであるあそび。
三人で散歩。夫はたのしいだろうか、ということがまた気になる。オレンジのポピーがたくさん咲いている場所を見つけた。わたしたちはぎゃあぎゃあ言いながら、ひたすら花を摘む。いつも通りかかる畑に、アオサギが一羽いた。はじめて見たあーちゃんは興奮。そのアオサギをわたしはしょっちゅう見かけていたが(ドブ川などにいる)、いつもおおきさにおどろいていた。そしてその光景に、ああ田舎だなあと思う。かつて実家のちかくで、羽根をひろげたキジを見たこともある気がするけれど、あれは夢だったのだろうか。家へ着くころには指の温度で、花はくったり折れまがっている。
すべり台をさらに補強すべく、材料調達のためひとりでホームセンターに行った夫が、あーちゃんにハサミを買ってきた。安全をうたうプラスチック製の、アンパンマンのハサミは切りづらく、金属製でもう大丈夫だろう、と思っていたのだ。夢中で紙を切りはじめる娘を見て、わたしはやりたいのに後まわしにしていることを、思い浮かべていた。
それは、ワイナー祐子さんが発行するzineに、寄稿するコラージュをつくること。今回から著作権フリーの素材を使おうと思っていたのだ。アメリカの「スミソニアン博物館」が、収蔵品のデータを無料提供していて、これがわたしの目的に合いそうだった。それでいろいろと検索して探してみるのだが……コラージュはこれ、という素材を決めた途端に、動きが滞ってくる気がする。制限がうまく働くこともあるとは思うけど。デジタル上で作業ができたら楽なんだろうなあと思いつつ、できないので画像をプリントアウトして、それをハサミで切る。プリンターの性能があまりよくなく、横線が入ったりして泣きたくなってくる。でも手を動かしていると、ふつふつとたのしくなってくるのだ、コラージュは。
夕食はつくる気力がわいてこず、夫作のチャーハン(カニカマとネギ)と、小松菜のおひたし。さいきん白米を残しがちだったあーちゃんだが、チャーハンは完食。
夜もコラージュのつづき。Instagramでは、祐子さんとTAKAHIROさんのライブ配信がちょうどはじまっていたので観る。筋トレしたいな、わたしもスクワットできないんだよな(足首が固くて屈伸できない)等、思いながら。なにが正解か、わからなくなってきたコラージュは寝かすことにして、就寝する。
六時起床。雨の音。身体がだるい。検温すると36.2℃、きっと低気圧のせいだろう。朝食はホットケーキ。
ずっと返信できていないことに、いてもたってもいられない気持ちになって、インナーチャイルドのメールセッションに、ながいながいメールを送る。
家にあるダンボールを使って、夫がすべり台をつくるという。ネットで情報を吟味しながら、「足りないものがある。それをなにで補うか……」と、ぶつぶつ呟きながら。
それをはたから見ていたあーちゃんに、「あーちゃん、おとなになったらパソコンで、おてつだいする。かーちゃんがこどもになったときの、すべりだい」と言われ、泣きそうになる(注 : 四月十五日の日記参照)。頭のなかでは、曽我部恵一「おとなになんかならないで」が流れだす。ほんとうに、おとなになんか、ならないでほしい。
それなのに、ひとりになりたいという気持ちが、一日のうちになんども浮上する。本がよみたい。ラジオの収録がしたい。自分に気持ちが向いていないことは、子どもに即伝わって、そのぶんかまってかまってが、つよくなる。
外で流れている放送「市からのお知らせ」、さいごのひと言に「コロナウイルスとたたかいましょう」と聞こえてきたのは、気のせいだろうか。勝つとか負けるとか、ましてやたたかうとか、そんな気はさらさらないです。
小説家の相川英輔さんが呼びかけていた、朗読の企画に参加することを決める。
いろいろとつらくなってきて、アニソン三曲(エルガイム、レイズナーのOP)、YouTubeで流して夫と熱唱。歌うより、叫ぶにちかい。
「もうできた?」と何回も、あーちゃんに急かされながら、夕方ごろ、すべり台が完成する。これまでさんざん、あーちゃんの人間すべり台だったわたしは、これによって解放されるのか(椅子に足を伸ばして座らされ、よじのぼってすべられていた。けっこうな痛さ)。足りない、と言っていたのは階段ぶぶんで、それはちいさめの脚立で補われていた。夫、すごいな。
夜は前職場である「長月」でお世話になった愛称ル・マンドさんの、Instagramでのライブ配信にお邪魔した。久しぶりにメイクをして、家族以外のひとと話した。さいしょは恥ずかしがっていたあーちゃんだが、慣れるとiPhoneのカメラのまえから動かなくなった。夫まで登場し、二十時ごろ終了。三十分後には、あーちゃんと夫が就寝。わたしは台所ですこしだけ、ラジオを収録する。
夕食 モスバーガー、ポテト(L)、ビール
「月日会」に一週間ぶん(四月八日~十四日)の日記をぶじ投稿する。
待っていてくれたあーちゃんと、庭でシャボン玉。雨がふりそうでふらない、くもり空の下、すこしだけ散歩もする。今日は綿毛のたんぽぽ三本と、駐車場に昨年も咲いていた、オレンジ色の野良ポピーを見つけた。うすい和紙みたいな花びらは衝撃によわくて、指があたっただけですぐ散ってしまう。
昼食に袋の塩ラーメン、鶏ハムをのせてみる。火が通っているか自信がいまいちなくて、何回もレンジにかけていたら、ぼそぼそした肉の塊りになってしまった。
また、せがまれてシャボン玉。ゆっくり息を長く吹きこむと、おおきな形になることに、ふたりで盛りあがる。わたし、おおきいシャボン玉つくるの、得意かもしれないと思う。熱中。あーちゃんも挑戦しては、「かあちゃん、みてみてみて」と言う。息を吐きだしすぎたのか、しだいにつかれてくる。上半身はクッションにもたれ、足だけを外に投げだしてみた。外で寝転んでいるみたいで、気持ちいい。
おやつに夫の買ってきてくれた、ベリーレアチーズのロールケーキ(美味しかった)を食べたあとは、いっきに動きたくなくなる。台所の床に座って、ストーブのまえで『のどがかわいた』をすこし読んだ。
楽譜も読めず、なにも楽器ができないけれど、弾き語りしたいと、ふと思う。カネコアヤノが歌いたい。
夕食を食べているさいちゅう、「こうやって過ごしとるうちに、また本つくれてまうんやないの?」と夫から言われ、え、書けなくなってるんだよ、いま。けっきょく、いつもと変わらない日記しか書けない。その日記を書くことですら、なにしとるんやろうって思うときあるし、わからなくなりながらやっている、という話をする。「いつもと同じこと、できとることがすごいんやないの?」と、励まされる。
夜は地鳴りのような、ものすごい雷。眠ったあーちゃんがいちど起きる。寝かしつけたあと、暗い台所で、ぼーっと稲光を見ていた。怖かった。
夕食 鶏ハム 粒マスタード添え、レタス、トマトおかか和え、ピーマンきんぴら、味噌汁(二日め)
朝食の卵焼きを焼いていた夫が、フライパンから取りだす際、コンロ台に卵焼きをまるごと落とす。その辺りがあまりきれいじゃないのもあり、食べずに捨てた。けっこうショックやよね、と夫に共感する。卵、落としてばかりな、わたしたち。
午前中は台所でくるくる動いていた。常備菜をきらしていたので、ピーマンきんぴら、にんじんグラッセ、あーちゃんが食べたいと言っていた、「おじゃがとあぶらあげ」の味噌汁をつくる。
シャボン玉しようという子どもに、散歩してみようか、と提案する。買い物は基本ひとりずつ大人が行っているし、ひきこもり生活になってから、あーちゃんの運動不足が気になっていた(マスクを何個もつくっておいて、つけられてない)。
外は汗ばむくらい、あたたかかった。あーちゃんは道端でたんぽぽの綿毛を見つけると、すぐさまマスクを下ろして、吹きにかかる。「にさいのとき、おうまちゃんで、たくさんふいたよね」。散歩の目的は「しろいたんぽぽ」を探すことになるが、さいしょの一個しか、けっきょく見つからなかった。
野の花を見ているだけでたのしい。紫の、たぶんスミレの一種、うすい紫のぽつぽつしたちいさな花(ホトケノザ?)をふたりで摘む。うすい水色のとてもちいさな花のついた、キュウリグサがちいさなころに好きだったことを、思いだした(なぜキュウリ?といま検索したら、葉をもむとキュウリの匂いがするとあった。これは忘れてた)。近所をぐるりと回って、二十分くらい。ひとにはほとんど会わなかった。あーちゃんは夫に黄色のたんぽぽを渡していた。摘んできた花を、通販で買って届いたとき驚いた、ちいさなちいさな花瓶に生ける。
帰宅後、庭でシャボン玉。
ずっとつくってみたかった鶏ハムをつくり、それを夕食にしようと思っていたら、意外に時間がかかることを午後に知り焦る。あるレシピは、下味つけたらひと晩置く、とあった。わたしの選んだ、栗原はるみレシピでは下味三時間、鍋に入れて三時間……。とりあえずつくってみて明日に回すことして、今日は簡単な炊き込みご飯にしようと、気持ちを切りかえる。
夜、起きていた。Spotifyでカネコアヤノを聞きながら、日記を書く。この歌いいなあ、と思って画面をみたら「祝日」というタイトルだった。二十二時半ごろ、鍋のなかで放置していた鶏ハムを取りだす。端をすこし切って食べてみる。しっとりしていたが、完成しているのかは、よくわからなかった。
夕食 ツナとしめじの炊き込みご飯、じゃがいも、わかめ、油揚げ、長ねぎの味噌汁
Spotifyの良さを夫に語る朝。よくわかってないんやけど、カネコアヤノ聞けるのうれしくて。それで、これまでTwitterとかでみんながいい、いいって言ってた歌、いまさらやっと聞いて、すごくよかったんやけど(折坂悠太、butajiなど)。よくわからないまま、夫も登録していた。すきな歌が急激にふえ、うきうきとする。それだけで家事がすすむ。
「とうちゃんがこどもになったら、たまごまぜるの、てつだってね」
卵焼きの卵を菜箸で混ぜながら、あーちゃんが夫に言う。夫が首をかしげていたので、あーちゃんは自分が大人になるように、わたしたち大人もいつか子どもになると思っていることを、こっそり教える。わたしは訂正しない。
やることはいろいろある気がするのに(実際あるのに)、なにもやることがないような気がするのはなぜだ。なにもせず、ぽかんとする。わるくない感覚だった。
あーちゃんに誘われ、庭にでる。ものすごくせまくても、庭は庭。ラベンダーが元気でうれしい。おそらくお隣さんの植木から、飛んできたと思われる、なにかわからない植物の芽にも、あーちゃんは水やりする、と言う。
子どもといっしょにシャボン玉を吹きながら、たくさんたくさん吹きながら、こうなるまえのわたしって、なんだったんだっけ、と思う。流れのまま無職になって、また書くことで、生きていけたらいいな、と思っていた。接客うまくなかったよなあ、とか。
風が吹かなければあたたかい。管理者にはめったに手入れされず、もちろん自分たちでもなにもしない、生垣がぼうぼうと茂っている。この木もずっと名まえを知らないままである。
パンとみりんがなくなった。久しぶりにひとりでスーパーへ。短時間で済むように、買うものをメモして行く。付箋になったメモをiPhoneの背にぺたりと貼る。「iPhone内にメモしたらいいのに」と、いつも夫に笑われる。
わたしが出かけているあいだ、子どもが二歳になるまえに買ったのに、いちども膨らませたことのない(この地域は暑すぎるからなどの言い訳をして。ただ面倒くさかったのだ)、あひるのビニールプールを室内にだしてみると、夫は言う。ぬいぐるみを中に入れた写真が、LINEで送られてきた。
帰宅すると、夫がパソコンで仕事をしているそばで、あーちゃんがアウトドア用のちいさい机と椅子をだして、ひらがなドリルをしていた。思わず、いいやん!とおおきな声を出しながら家に入っていくと、「びっくりした!」とあーちゃんに怒られる。
冷蔵庫の卵ケースに卵を入れようとして、ひとつ床に落とす。おおきな声がでて、またあーちゃんに「びっくりした!」と顔をしかめられた。
夜、子どものはみがきをする際に、絵本をかならず二冊読む。あーちゃんが今日選んできたひとつが、わかやまけん『しろくまちゃんのほっとけーき』(こぐま社)だった。しろくまちゃんが卵を落とす頁があるのだが、ほら、かあちゃんといっしょ、と自己弁護するみたいに言う。
夕食 二色そぼろ丼、ほうれん草のおひたし、味噌汁(二日め)
五時すこし過ぎに目が覚める。布団のなかでTwitterの通知をみて、うれしい返信にふふとなって、noteで更新されていたワイナー祐子さん、きくちゆみこさんの日記をよむ。これがこのところの習慣で、わたしにとっての安全確認。だいじょうぶだ、と思える時間。
しかも、月日会の会報(メンバーみなさんの日記、膨大!)も届いていて、ああ、こんなにたくさんの日々の記録が。日記ずきとしてはわくわくどきどきするばかりで、つぎも一週間ぶん日記を投稿するぞ、と力がふつふつみなぎってきて、五時半ごろ起床。日記を書こうと思うこと(それを投稿しようと思えることじたい)がほとんど、生きていこうということと、同義になっている気がする。
小児科へ行くまえに、常備菜をつくって昼食の準備もして……としていると、気がつけば出発の時間まぢかだった。まだパジャマだし、お腹も痛くなってきた。
きのう収録したラジオを聞いてくれた祐子さんが、NYも雨だったと言っていて、ふしぎな気持ちになる。かかりつけへ向かう車中では、さいきん更新を心待ちにしている、イラストレーター平松モモコさんのラジオ(早起きをするための配信で、起きてすぐ録音!)と、ちょうど今朝配信された祐子さんのラジオを聞く。
「世界がどんどん小さくなっている」と感じること、自主隔離中の心境について等、頷くぶぶんがおおい。ほんとうに、自分のすきじゃないことなんて、もうできないと思う。わたしは本ばかり買っていて、もうそれだけで今後は生きていけるような気がする。祐子さんが朗読されていた、須賀敦子の手紙がとてもいいなあ、と思う。おしゃべりしているように書かれた文章。
帰り道、お腹がどんどん痛くなってくる。立ち寄った薬局にトイレがなくて、ぜつぼうしながらもどうにか帰宅。腹痛が落ちついたので、駐車場で自分のラジオを収録する。岸本佐知子「ラプンツェル未遂事件」(『気になる部分』白水Uブックス 所収)について紹介。強風が吹きあれ、車が揺れていた。
舌の付け根に口内炎、治ってはまたできる。そこを起点に怠さが、身体ぜんたいに拡がっているような感覚(熱はない)。
眠くて眠くてぜったい寝落ち、と思っていたけれど、またわたしだけ起きていた。Twitterで「fuzkue」さんが、読書のためのプレイリストを公開されていると知り(その後アルバムも)、Spotifyに登録する。まだ、すこししか読めていない、大阿久佳乃『のどがかわいた』(岬書店)をめくる。茨木のり子の「汲む」という詩の引用で、「頼りない生牡蠣のような感受性」という言葉が目に入る、ぐっとくる。わたしもきっと、生牡蠣のようなもの。そして「月日会」の会報を読みながら、自分の日記も書きすすめる。
夕食 チキンソテー、レタス、マカロニサラダ、ほうれん草のおひたし、豆腐、わかめ、えのき、玉ねぎの味噌汁