窓全開でシャボン玉する。風がつめたい。さむい、さむいと言いながら、わたしは部屋のなかから、あーちゃんの様子を見ていた。
常備菜のピーマンきんぴら、じゃがいもソテー、ツナそぼろをつくる。
散歩に行こうと外にでて、さむくてダウンを取りにすぐ戻る。どっちに行きたい?とあーちゃんに聞いてみたり、なんとなく、いつも通る道と、ちがう道を歩いてみる。けっきょくはいつもの道につながっていた。苔のことを「コゲ」と言う。つないだ手を振りほどこうと、ちいさな手が掌のなかでもやもやと動きだすことに、いらだってしまう。マンションの玄関ぶぶんで、ひとりなわとびをしていた、中高生くらいの女の子に「こんにちは」と言われ、すこしうれしい気持ちになった。
幼稚園から、動画の配信をはじめたというメールが届く。 各地でそういう対応があることをSNSでちらほら見かけ、でもあまりデジタルにつよいという印象がなかったので、期待はせず、また通える日を待とう……と思っていた。そのメールを見たしゅんかん涙ぐんでいたが、先生の顔を見られただけで、なんだかうれしく泣けてくる。担任の先生以外の、先生たちの名まえをはじめて知る。むしろ担任じゃない先生に会うことのほうが多いのに(日中過ごす園と、預かり保育の場所がちがうため)、これまで知る機会がなかったのだった。
動画にたいしはずかしがって、あーちゃんはわたしの腕に、ずっとしがみついていた。身体が熱い気がして、検温するが平熱。うっすらと汗ばんでい。
ふたたび、窓全開でシャボン玉。もうほとんど、部屋のなかでシャボン玉している状態だった。飛んでいるシャボン玉に息を吹きかけ、すきな方向に動かすあそびがはじまる。シャボン玉、意外といろんなあそびかたがある。
永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)を読む。この本は、十年ほどまえに、川上未映子さんがお薦めしていたことがきっかけで買ったのだが、やっと手にとった。本を読んで哲学を勉強するのだ、と思って読みはじめたらすぐ、本を読むことが哲学を勉強することではない、というような文章に出会う。はやく読めばよかったとも思うけれど、十年かかってそのことを、わたしはやっと知ることができてよかった。
夕方ごろの、あーちゃんのテンションがいつも高い。高すぎる。わたしと夫は夜に向けて、どんどん沈んでいくばかりなので、その対応に骨がおれる。あーちゃんはとっくに昼寝しないし(一歳半からしなくなった)、つかれすぎてそうなってしまうのだろうか。わからない。
夕食 ハヤシライス(二日め)にオムレツ(夫作)のせる、小松菜おひたし
カレンダーを見て、二十日ってなに、と思う。もう五月やん。しかし、ゴールデンウィークじゃないゴールデンウィークって(どこにもいかない、というくらいの意味で)、はじめてのことだなあと思う。自分だけでなく、すべてのひとにとってなのだが。
昨夜つくったコラージュを見る。素材を足そうか迷っていたぶぶんは、やめたほうがいいとすぐ判断できた。やはり、シンプルなほうがすき。
今日は占星術をベースにした、淡の間さんのカウンセリングを受けた。思っていたより、占いという感じはしなかった。予約をしたのは一ヶ月まえのことで、お話してみたいという、いくぶんミーハーな気持ちもあって、これという相談もない状態で申し込んだ。それがいまや、先行きのみえない、もやもやを抱えている。
話はLINE通話でする、とあったのにビデオ通話と勝手に思いこんでいたわたしは、朝から自分の机のうえを整頓していた。物をほとんど、床に移動しただけだけど、なにも置いてない机っていいな、と思う。
時間がないから、と昼食に食べたカップラーメンが塩っ辛い。思わず夫に、これしょっぱいよね?と言うと、彼もひと口めから、同じように感じたらしい。レトルトやインスタント食品、楽したいときは食べるのだけど、味が濃すぎるし、どんどん身体が受けつけなくなってきている。楽したいのに。
淡の間さんから「相談はありますか?」と言われたとき、うまく話せたとは思えないけれど、それでもほんとうに受けてよかったと思う。なぜもやもやするのかが、自分のなかではっきりしたから。それがもっとも、腑におちたことだった。誘導されてする、” ゆる瞑想 “も、とてもよかった。
通話のさいちゅう、あーちゃんが「おそと、あめあがったかな? いっしょにおさんぽ、しーへん?」と、なんども言いにきた。仕方がないとはいえ、夫と子どもがすぐそばにいるなか、こういった時間を過ごすことは、以前の自分では考えられなかった(予約した時点では、昼間はひとりでいられると思っていた)。
カウンセリング後は、「おおきなとりさん」を探しに散歩。今日は会えず。
あーちゃんはすべり台をすべりまくっていた。たぶん百回くらい、と夫と言いあう。
夕食 ハヤシライスに、チーズオムレツ(夫作)のせる
シャボン玉をするため庭にでる。
あーちゃんは「とうちゃんもいっしょにやろ」と言うが、夫は「俺いいわ」という感じ。わたしもさいしょは、シャボン玉にたいして、そうだったなあと思う。なんだか吹く気も起きなくて、ぼーっと眺めていた。それが吹きはじめると、しだいに、たのしくなってきたのだった。わたしすごいおおきいの、つくれるんやて、と吹くがすぐ弾けてしまう。夫の目を意識しすぎか。飛んでいるシャボン玉を、吹き棒でキャッチして、さらに息で吹き飛ばす……というのを繰り返すのもたのしいのだが、夫にうまく説明できない。あーちゃんとはおなじみであるあそび。
三人で散歩。夫はたのしいだろうか、ということがまた気になる。オレンジのポピーがたくさん咲いている場所を見つけた。わたしたちはぎゃあぎゃあ言いながら、ひたすら花を摘む。いつも通りかかる畑に、アオサギが一羽いた。はじめて見たあーちゃんは興奮。そのアオサギをわたしはしょっちゅう見かけていたが(ドブ川などにいる)、いつもおおきさにおどろいていた。そしてその光景に、ああ田舎だなあと思う。かつて実家のちかくで、羽根をひろげたキジを見たこともある気がするけれど、あれは夢だったのだろうか。家へ着くころには指の温度で、花はくったり折れまがっている。
すべり台をさらに補強すべく、材料調達のためひとりでホームセンターに行った夫が、あーちゃんにハサミを買ってきた。安全をうたうプラスチック製の、アンパンマンのハサミは切りづらく、金属製でもう大丈夫だろう、と思っていたのだ。夢中で紙を切りはじめる娘を見て、わたしはやりたいのに後まわしにしていることを、思い浮かべていた。
それは、ワイナー祐子さんが発行するzineに、寄稿するコラージュをつくること。今回から著作権フリーの素材を使おうと思っていたのだ。アメリカの「スミソニアン博物館」が、収蔵品のデータを無料提供していて、これがわたしの目的に合いそうだった。それでいろいろと検索して探してみるのだが……コラージュはこれ、という素材を決めた途端に、動きが滞ってくる気がする。制限がうまく働くこともあるとは思うけど。デジタル上で作業ができたら楽なんだろうなあと思いつつ、できないので画像をプリントアウトして、それをハサミで切る。プリンターの性能があまりよくなく、横線が入ったりして泣きたくなってくる。でも手を動かしていると、ふつふつとたのしくなってくるのだ、コラージュは。
夕食はつくる気力がわいてこず、夫作のチャーハン(カニカマとネギ)と、小松菜のおひたし。さいきん白米を残しがちだったあーちゃんだが、チャーハンは完食。
夜もコラージュのつづき。Instagramでは、祐子さんとTAKAHIROさんのライブ配信がちょうどはじまっていたので観る。筋トレしたいな、わたしもスクワットできないんだよな(足首が固くて屈伸できない)等、思いながら。なにが正解か、わからなくなってきたコラージュは寝かすことにして、就寝する。
六時起床。雨の音。身体がだるい。検温すると36.2℃、きっと低気圧のせいだろう。朝食はホットケーキ。
ずっと返信できていないことに、いてもたってもいられない気持ちになって、インナーチャイルドのメールセッションに、ながいながいメールを送る。
家にあるダンボールを使って、夫がすべり台をつくるという。ネットで情報を吟味しながら、「足りないものがある。それをなにで補うか……」と、ぶつぶつ呟きながら。
それをはたから見ていたあーちゃんに、「あーちゃん、おとなになったらパソコンで、おてつだいする。かーちゃんがこどもになったときの、すべりだい」と言われ、泣きそうになる(注 : 四月十五日の日記参照)。頭のなかでは、曽我部恵一「おとなになんかならないで」が流れだす。ほんとうに、おとなになんか、ならないでほしい。
それなのに、ひとりになりたいという気持ちが、一日のうちになんども浮上する。本がよみたい。ラジオの収録がしたい。自分に気持ちが向いていないことは、子どもに即伝わって、そのぶんかまってかまってが、つよくなる。
外で流れている放送「市からのお知らせ」、さいごのひと言に「コロナウイルスとたたかいましょう」と聞こえてきたのは、気のせいだろうか。勝つとか負けるとか、ましてやたたかうとか、そんな気はさらさらないです。
小説家の相川英輔さんが呼びかけていた、朗読の企画に参加することを決める。
いろいろとつらくなってきて、アニソン三曲(エルガイム、レイズナーのOP)、YouTubeで流して夫と熱唱。歌うより、叫ぶにちかい。
「もうできた?」と何回も、あーちゃんに急かされながら、夕方ごろ、すべり台が完成する。これまでさんざん、あーちゃんの人間すべり台だったわたしは、これによって解放されるのか(椅子に足を伸ばして座らされ、よじのぼってすべられていた。けっこうな痛さ)。足りない、と言っていたのは階段ぶぶんで、それはちいさめの脚立で補われていた。夫、すごいな。
夜は前職場である「長月」でお世話になった愛称ル・マンドさんの、Instagramでのライブ配信にお邪魔した。久しぶりにメイクをして、家族以外のひとと話した。さいしょは恥ずかしがっていたあーちゃんだが、慣れるとiPhoneのカメラのまえから動かなくなった。夫まで登場し、二十時ごろ終了。三十分後には、あーちゃんと夫が就寝。わたしは台所ですこしだけ、ラジオを収録する。
夕食 モスバーガー、ポテト(L)、ビール
「月日会」に一週間ぶん(四月八日~十四日)の日記をぶじ投稿する。
待っていてくれたあーちゃんと、庭でシャボン玉。雨がふりそうでふらない、くもり空の下、すこしだけ散歩もする。今日は綿毛のたんぽぽ三本と、駐車場に昨年も咲いていた、オレンジ色の野良ポピーを見つけた。うすい和紙みたいな花びらは衝撃によわくて、指があたっただけですぐ散ってしまう。
昼食に袋の塩ラーメン、鶏ハムをのせてみる。火が通っているか自信がいまいちなくて、何回もレンジにかけていたら、ぼそぼそした肉の塊りになってしまった。
また、せがまれてシャボン玉。ゆっくり息を長く吹きこむと、おおきな形になることに、ふたりで盛りあがる。わたし、おおきいシャボン玉つくるの、得意かもしれないと思う。熱中。あーちゃんも挑戦しては、「かあちゃん、みてみてみて」と言う。息を吐きだしすぎたのか、しだいにつかれてくる。上半身はクッションにもたれ、足だけを外に投げだしてみた。外で寝転んでいるみたいで、気持ちいい。
おやつに夫の買ってきてくれた、ベリーレアチーズのロールケーキ(美味しかった)を食べたあとは、いっきに動きたくなくなる。台所の床に座って、ストーブのまえで『のどがかわいた』をすこし読んだ。
楽譜も読めず、なにも楽器ができないけれど、弾き語りしたいと、ふと思う。カネコアヤノが歌いたい。
夕食を食べているさいちゅう、「こうやって過ごしとるうちに、また本つくれてまうんやないの?」と夫から言われ、え、書けなくなってるんだよ、いま。けっきょく、いつもと変わらない日記しか書けない。その日記を書くことですら、なにしとるんやろうって思うときあるし、わからなくなりながらやっている、という話をする。「いつもと同じこと、できとることがすごいんやないの?」と、励まされる。
夜は地鳴りのような、ものすごい雷。眠ったあーちゃんがいちど起きる。寝かしつけたあと、暗い台所で、ぼーっと稲光を見ていた。怖かった。
夕食 鶏ハム 粒マスタード添え、レタス、トマトおかか和え、ピーマンきんぴら、味噌汁(二日め)
朝食の卵焼きを焼いていた夫が、フライパンから取りだす際、コンロ台に卵焼きをまるごと落とす。その辺りがあまりきれいじゃないのもあり、食べずに捨てた。けっこうショックやよね、と夫に共感する。卵、落としてばかりな、わたしたち。
午前中は台所でくるくる動いていた。常備菜をきらしていたので、ピーマンきんぴら、にんじんグラッセ、あーちゃんが食べたいと言っていた、「おじゃがとあぶらあげ」の味噌汁をつくる。
シャボン玉しようという子どもに、散歩してみようか、と提案する。買い物は基本ひとりずつ大人が行っているし、ひきこもり生活になってから、あーちゃんの運動不足が気になっていた(マスクを何個もつくっておいて、つけられてない)。
外は汗ばむくらい、あたたかかった。あーちゃんは道端でたんぽぽの綿毛を見つけると、すぐさまマスクを下ろして、吹きにかかる。「にさいのとき、おうまちゃんで、たくさんふいたよね」。散歩の目的は「しろいたんぽぽ」を探すことになるが、さいしょの一個しか、けっきょく見つからなかった。
野の花を見ているだけでたのしい。紫の、たぶんスミレの一種、うすい紫のぽつぽつしたちいさな花(ホトケノザ?)をふたりで摘む。うすい水色のとてもちいさな花のついた、キュウリグサがちいさなころに好きだったことを、思いだした(なぜキュウリ?といま検索したら、葉をもむとキュウリの匂いがするとあった。これは忘れてた)。近所をぐるりと回って、二十分くらい。ひとにはほとんど会わなかった。あーちゃんは夫に黄色のたんぽぽを渡していた。摘んできた花を、通販で買って届いたとき驚いた、ちいさなちいさな花瓶に生ける。
帰宅後、庭でシャボン玉。
ずっとつくってみたかった鶏ハムをつくり、それを夕食にしようと思っていたら、意外に時間がかかることを午後に知り焦る。あるレシピは、下味つけたらひと晩置く、とあった。わたしの選んだ、栗原はるみレシピでは下味三時間、鍋に入れて三時間……。とりあえずつくってみて明日に回すことして、今日は簡単な炊き込みご飯にしようと、気持ちを切りかえる。
夜、起きていた。Spotifyでカネコアヤノを聞きながら、日記を書く。この歌いいなあ、と思って画面をみたら「祝日」というタイトルだった。二十二時半ごろ、鍋のなかで放置していた鶏ハムを取りだす。端をすこし切って食べてみる。しっとりしていたが、完成しているのかは、よくわからなかった。
夕食 ツナとしめじの炊き込みご飯、じゃがいも、わかめ、油揚げ、長ねぎの味噌汁
Spotifyの良さを夫に語る朝。よくわかってないんやけど、カネコアヤノ聞けるのうれしくて。それで、これまでTwitterとかでみんながいい、いいって言ってた歌、いまさらやっと聞いて、すごくよかったんやけど(折坂悠太、butajiなど)。よくわからないまま、夫も登録していた。すきな歌が急激にふえ、うきうきとする。それだけで家事がすすむ。
「とうちゃんがこどもになったら、たまごまぜるの、てつだってね」
卵焼きの卵を菜箸で混ぜながら、あーちゃんが夫に言う。夫が首をかしげていたので、あーちゃんは自分が大人になるように、わたしたち大人もいつか子どもになると思っていることを、こっそり教える。わたしは訂正しない。
やることはいろいろある気がするのに(実際あるのに)、なにもやることがないような気がするのはなぜだ。なにもせず、ぽかんとする。わるくない感覚だった。
あーちゃんに誘われ、庭にでる。ものすごくせまくても、庭は庭。ラベンダーが元気でうれしい。おそらくお隣さんの植木から、飛んできたと思われる、なにかわからない植物の芽にも、あーちゃんは水やりする、と言う。
子どもといっしょにシャボン玉を吹きながら、たくさんたくさん吹きながら、こうなるまえのわたしって、なんだったんだっけ、と思う。流れのまま無職になって、また書くことで、生きていけたらいいな、と思っていた。接客うまくなかったよなあ、とか。
風が吹かなければあたたかい。管理者にはめったに手入れされず、もちろん自分たちでもなにもしない、生垣がぼうぼうと茂っている。この木もずっと名まえを知らないままである。
パンとみりんがなくなった。久しぶりにひとりでスーパーへ。短時間で済むように、買うものをメモして行く。付箋になったメモをiPhoneの背にぺたりと貼る。「iPhone内にメモしたらいいのに」と、いつも夫に笑われる。
わたしが出かけているあいだ、子どもが二歳になるまえに買ったのに、いちども膨らませたことのない(この地域は暑すぎるからなどの言い訳をして。ただ面倒くさかったのだ)、あひるのビニールプールを室内にだしてみると、夫は言う。ぬいぐるみを中に入れた写真が、LINEで送られてきた。
帰宅すると、夫がパソコンで仕事をしているそばで、あーちゃんがアウトドア用のちいさい机と椅子をだして、ひらがなドリルをしていた。思わず、いいやん!とおおきな声を出しながら家に入っていくと、「びっくりした!」とあーちゃんに怒られる。
冷蔵庫の卵ケースに卵を入れようとして、ひとつ床に落とす。おおきな声がでて、またあーちゃんに「びっくりした!」と顔をしかめられた。
夜、子どものはみがきをする際に、絵本をかならず二冊読む。あーちゃんが今日選んできたひとつが、わかやまけん『しろくまちゃんのほっとけーき』(こぐま社)だった。しろくまちゃんが卵を落とす頁があるのだが、ほら、かあちゃんといっしょ、と自己弁護するみたいに言う。
夕食 二色そぼろ丼、ほうれん草のおひたし、味噌汁(二日め)
五時すこし過ぎに目が覚める。布団のなかでTwitterの通知をみて、うれしい返信にふふとなって、noteで更新されていたワイナー祐子さん、きくちゆみこさんの日記をよむ。これがこのところの習慣で、わたしにとっての安全確認。だいじょうぶだ、と思える時間。
しかも、月日会の会報(メンバーみなさんの日記、膨大!)も届いていて、ああ、こんなにたくさんの日々の記録が。日記ずきとしてはわくわくどきどきするばかりで、つぎも一週間ぶん日記を投稿するぞ、と力がふつふつみなぎってきて、五時半ごろ起床。日記を書こうと思うこと(それを投稿しようと思えることじたい)がほとんど、生きていこうということと、同義になっている気がする。
小児科へ行くまえに、常備菜をつくって昼食の準備もして……としていると、気がつけば出発の時間まぢかだった。まだパジャマだし、お腹も痛くなってきた。
きのう収録したラジオを聞いてくれた祐子さんが、NYも雨だったと言っていて、ふしぎな気持ちになる。かかりつけへ向かう車中では、さいきん更新を心待ちにしている、イラストレーター平松モモコさんのラジオ(早起きをするための配信で、起きてすぐ録音!)と、ちょうど今朝配信された祐子さんのラジオを聞く。
「世界がどんどん小さくなっている」と感じること、自主隔離中の心境について等、頷くぶぶんがおおい。ほんとうに、自分のすきじゃないことなんて、もうできないと思う。わたしは本ばかり買っていて、もうそれだけで今後は生きていけるような気がする。祐子さんが朗読されていた、須賀敦子の手紙がとてもいいなあ、と思う。おしゃべりしているように書かれた文章。
帰り道、お腹がどんどん痛くなってくる。立ち寄った薬局にトイレがなくて、ぜつぼうしながらもどうにか帰宅。腹痛が落ちついたので、駐車場で自分のラジオを収録する。岸本佐知子「ラプンツェル未遂事件」(『気になる部分』白水Uブックス 所収)について紹介。強風が吹きあれ、車が揺れていた。
舌の付け根に口内炎、治ってはまたできる。そこを起点に怠さが、身体ぜんたいに拡がっているような感覚(熱はない)。
眠くて眠くてぜったい寝落ち、と思っていたけれど、またわたしだけ起きていた。Twitterで「fuzkue」さんが、読書のためのプレイリストを公開されていると知り(その後アルバムも)、Spotifyに登録する。まだ、すこししか読めていない、大阿久佳乃『のどがかわいた』(岬書店)をめくる。茨木のり子の「汲む」という詩の引用で、「頼りない生牡蠣のような感受性」という言葉が目に入る、ぐっとくる。わたしもきっと、生牡蠣のようなもの。そして「月日会」の会報を読みながら、自分の日記も書きすすめる。
夕食 チキンソテー、レタス、マカロニサラダ、ほうれん草のおひたし、豆腐、わかめ、えのき、玉ねぎの味噌汁
ずっと雨の音がしている。台所で家事をしていてふと振りかえると、あーちゃんはぬりえをはじめていた。このところはずっと、朝食に使う卵を混ぜること、トーストのバターを自分で塗ることもすきだ。
午前中、振込などの用事を済ませるため、ひとりでコンビニへ行く。車を運転するのがほんとうに久しぶりで、足元がすこしふわふわする。ATMにいたら、老人男性がにじり寄ってきたので逃げる。コンビニのレジカウンターのまえ、店員さんと自分の境に、ビニールの幕がだらりと垂れさがっていた。しずかに衝撃を受ける。車のなかっていいかもしれないと思いながら、いっしゅんで帰宅。部屋の延長上というか。わたしはひとりになりたいときの、逃げ場所をさがしていた。
用事を済ませた達成感で勢いがつき、ずっと気になっていたことを電話で尋ねる。娘が月に一回通院して、貰っている薬のこと。急を要する症状ではないため、非常事態宣言がだされたいま、病院へ行くことじたい避けたほうがいいのか。でも、三年ほど治療しているものなので、勝手に中断していいのかも、わからない。かかりつけからは「親ひとり来るだけでいい」という返事で、かなりほっとした。やはり、子どもといっしょに外出して、さっと帰ることは困難だから。
昼食は温かいたぬきそば。甘辛く煮た油揚げだけ、あーちゃんにあげたら気にいっていた。
これまで、ずっと食事中もNetflixなどで、動画を観せていた。離乳食が大変だったころに癖になってしまい(動画に気がいっているうちに、口にいれる……)、もうずっと言われるままに観せていて、なにが観たいか毎回ちがう番組をさっと言うことに感心すらしていたのだけど(ペッパーピッグ、カズープ、ミッフィーなどなど)、やっと、やっと止めようということになる。動画に夢中になって、ごはんがぽろりとか、箸じたい止まってるとか、さすがにあかんやろとなった。説明すると、そこまでごねることなく受けいれてくれる。こちらが気づくのが、いつもいつも遅すぎる……。
阿久津隆『読書の日記 本づくり / スープとパン / 重力の虹』(NUMABOOKS)が届く。ああ、かわいい。本棚にはしまいたくなくて、すぐ本だらけになる自分の机のうえに、まずは置く。
雨がふりしきるなか、車内に避難して、ラジオ収録。家ではあーちゃんが夫と、子ども番組を観はじめているころだ。二十分ちかく話す。声をだすと自分が整っていくような気がする。ざあざあという雨音も、いっしょに録音されていた。
夕方すぎ、昼ごろ来る予定だった火災報知器の点検と、父母の来訪がかさなり、わたわたとする。これでしばらく会えなくなるのに、あまり落ちついて話せなかった。
夕食は、冷蔵庫にあった豚肉とキャベツでチヂミ(お好み焼きソースを切らしていた)とビール、中華風スープ(二日め)。チヂミは生地だけつくり、夫に焼いてもらうことにしたのだが、生地の見た目が関西風お好み焼きすぎて、一枚めはぶ厚く焼いてしまう事案が発生。タレなしであーちゃんにも。たくさん食べた。