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2020-01-16

あとがきのあとがき 日記ずき

 Twitterの個人アカウント(@bobmarluy)での告知後、さっそくのご予約をいただいており感無量です。フェアが開かれる、東京で手にとってくださるという方も。みなさま、本当にありがとうございます! 

 その際「生活のあいまでつくった」本と、紹介しましたが、まさにその言葉のとおりで、そこにじゅうぶんな時間はありませんが、でも生活(育児、家事、仕事)があるからこそ、日記が書きたくなる、という循環があるような気がしています。

 カレンダーを見るともう発行まぢか。わたしは器用というわけではないのですが、手紙を書くまえのわくわくとした気持ちがすきで、それは発送も同じだなと思いながら、今日はみなさまへお送りをする準備をしていました(あ、でも内職とか、もくもくと作業することもすきです)。

 発送までどうぞ、もうしばらくお待ちくださいませ!

 さて、日記集『どこにもいかない、ここにある』のあとがきも、ページ数の都合上、内容をぎゅぎゅっと凝縮せざるをえず、どうしてもはみだしてしまうことがあって……そのひとつがそもそも「ひとの日記を読むのがすきなこと」。それが何故なのか、折にふれて考えてきました。

武田百合子『富士日記』(中公文庫)

 すき、ということを意識したきっかけははっきりとしていて、武田百合子『富士日記』(中公文庫)を読んだから。本書を手にとったのは十年ほどまえ。敬愛する川上弘美さんが百合子さんをすきだということを、たしか文芸誌の弘美さん特集で知ったからでした。

  冬になればなるほど、夕焼のきれいなこと! -44ページ

  夜はまったく晴れて、星がぽたぽた垂れてきそうだ。 -63ページ

 上巻(わたしが持っているのは改版)を捲ると、このような一行に付箋が貼ってあります。その出会いは、これまで見ていた景色が変わってしまったくらい、自分にとっては衝撃でした。

 とにかく文章に惹かれ、すぐさま百合子さんに夢中になりました。とはいえ、『ことばの食卓』(ちくま文庫)をなんども読み返しつつ、『富士日記』は読み返そうといつも心のどこかで思いながら、気がつけば、ながい時間が経っていました。

 ああ、やはり百合子さんの文章は面白い。さいきんそんな思いが、鮮やかによみがえったのは、昨年十月に発行された『富士日記を読む』(中央公論新社編、中公文庫)を手にとったからでした。

 本書は、ほとんどが『富士日記』にまつわる、著名な作家のエッセイや書評から成る一冊ですが、その第一章が「その後の『富士日記』」と題し、夫・泰淳の死後に書かれた文章が載っているのです(自分の読んだことのない文章が……!とうきうきしながら読んでいたら、底本であるエッセイ集『あの頃』中央公論新社、を積ん読していたことに気づく)。

 泣きたくなってくるような切ない気持ちと、思わず吹きだしてしまう笑いが、共存している文章に、わたしは百合子さんのすごみを感じます。『富士日記』読者にはおなじみの、石屋の外川さんと五〜七年ぶりに会ったエピソード「五年目の夏」が、とてもすきでした。

 さいごに、今年春に日記本の専門店「月日」をオープンされる、ブックコーディネーターの内沼晋太郎さんが、日記に関して以前Twitterでつぶやかれていた言葉を。

  日付だけでタイトルがない日記のフォーマットは、タイトルで興味を引いてワンテーマを短くわかりやすく、というインターネット的な文章作法から逃れて、バズることなく余分なことをたくさん書ける。

 日記を読むことがすきなのは、まさに内沼さんがいわれるとおり、そういった文章をよむことが、すきだからなのでした。バズる文章とは遠くはなれた、日記という形式じたい、わたしはかなりすきなのかもしれません。

ばんかおり

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