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2020-05-17

思いだす日記 | 五月五日、六日

五月五日(火)

散歩中に遭遇したアオサギ

 七時起床。部屋にはいってくる風が気持ちいい。夫とともに子ども服の衣替え(ひとりでは取りかかることのできないやつ)。

 庭にいたら、目のまえにさっとアゲハチョウが現れて、ここは「どうぶつの森」?と思う。目のまえにいるのにその鮮やかさが嘘みたいで、夢からさめたような心地がする。

 あーちゃんに「だんごむしちゃん」と、だんご虫を目のまえに差しだされる。思わず「ぎゃあ」と叫んでのけぞる。遠目ではいいのだけど、ちかくでたくさんの脚をみることには、耐えられず。ぶん、という羽音が首のちかくでもして、また奇声がでる。虫が苦手なのに、虫に好かれやすい。あーちゃんはずっとだんご虫を探して、見つけてはさわってあそんでいる。すこし楽。自分も子どものころは、だんご虫くらいはさわれたのにな。

 三人で散歩に行く。久しぶり、という気がする。ふたりでの散歩に、すこし疲れを感じだしてから、外へでていなかった。もう来ないだろうと(勝手に)思っていたアオサギが、いつもの畑に居た。わたしたちがちかづくと、ゆっくり向こうへ飛んでいき、すぐ姿が見えなくなる。

 本を集中して読めないけれど、それでいいとかんがえていたときに、WEBで読んだ「出られない私たちの『自分ひとりの部屋』|はらだ有彩×ひらりさ対談⑥」

はらだ ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(※)のことを考えていたんですが、全員が家のなかにいなければならない状況で、そもそも家族が出かけている時間に家で何かを生み出していた人にとっては「自分ひとりの部屋」が消滅したり狭まったりしている状況ですよね。部屋がない。で、ちょっとウルフからは話がずれるかもですが、今は外に行けないから、部屋の外もない。自分ひとりの部屋は何かをつくるための必要最低限の装置であり仕組みであるから、外の世界に干渉されない部屋がないとものを作れない。そして、ぶじに部屋に留まることができても、装置をまわすエネルギー(良くも悪くも)の発生源である外の世界がなければやっぱり作れない。部屋が確保されていて、自由に出入りできることが必要です。

 そうそう、ほんとうにそうだと思う。こもっているあいだつらかったのは、通園が始まりつかのまに手に入れた、「自分ひとりの部屋」(本書はいまだ読みかけ)がなくなってしまったからなんだ、と思う(いまはそれさえなしで、書いたり読んだりしているが)。

 このところ、音声配信が止まってしまったのは、急に暑くなって、車のなかでの録音がきついことも理由だけれど、「ひとりの時間がほしい」と声をださないと、それが得られないことに、面倒くささを感じてしまっているからだった。逆に夫には、大丈夫?ひとりの時間はいらないの?と思うけど、おそらく夜に、その時間を取ることができているのだろう(推測)。音声配信は、もともと得意なことではないので、止まってしまうと再開するのに、えいっという気持ちがいるな、とも思う。

 布団のなかで『俳句は入門できる』読了。

夕食 小松菜と卵のチャーハンに娘用のツナそぼろのせ、長芋ステーキ


五月六日(水)

「とらきつね」さんからの包みに同封されていたポストカード
「とらきつね」さんからの包みに同封されていた、最高のポストカード

 雨がざあざあ降っている。朝から雷。どどどどど、という音を、布団のなかから聞いていた。慌てた様子で夫がベランダの窓を開け、なにかを片付けている音で、あーちゃんといっしょに起きあがる。

 TwitterのTLに流れてきて読んだ、「ダヴィンチ・ニュース『日出処の天使』対談 川上未映子 × 穂村弘」面白かった。運命の人にかんする記述を、思わずメモ。愛の不可能性!

〈穂 : まさしく概念ですよ。運命の人とは本来、具体的な誰かではなく、僕たちを生かすための幻想だと思います〉

 未映子さんが、あの場面みたいな文章を書きたいんや、と言っているくだりも胸熱。

 夕方、姉と姪とLINEでビデオ通話。話せたのが節分に、実家で会って以来だった。40分ほど話して汗ばむ。平松モモコさんがラジオで、「お喋りは運動」と話されていたが、その通りだと思う。

 「とらきつね」から届いたばかりの植本一子『個人的な三月 コロナジャーナル』を、みなが寝静まってからいっき読みする。そのあと、一緒に届いた鳥羽和久『親子の手帖』(鳥影社)も読みはじめ、これはいまの自分に必要な本だ! と確信。さすがに眠たくて、最後までは読めなかった。

夕食 チキンソテー、ピーマンと長芋焼いたの添え、ミニトマト

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