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2020-06-22

日記 | 六月二十一日(日)夏至

 夜。あまり眠たくなくて起きていた。あーちゃんの意識が夫にばかり向かっていたので、わたしはそこまで疲れていなかった。伸びすぎていた爪をやっと切って、せっかくなのでという気持ちで、久しぶりにマニキュアを塗る(THREEのGIRL IN AMBERという色)。塗りながら、視線はちらちらとPCの画面にあった。見ていたのは「恒信風」のサイト。池田澄子さんのことを調べていたら、たまたま出てきて「あの!」と思う。デビューするかしないかの川上弘美さんや、長嶋有さんが参加していたという俳句同人。九十五年頃からの、同人自選句のページを、順に読んでいるのだった。載っていた、池田澄子さんのインタビューはすでに読んだが、けっこうなボリュームがあって面白かった。穂村弘さんのインタビューもあった。「都鳥」とかわからない、と言いきっている箇所に笑い、思わず次の日、夫にも教えた。

 爪が乾いてきたので、読もうと思っていた本を開く。江國香織『去年の雪』(角川書店)。去年は「こぞ」と読む。さわりだけ読んで積んでいたが、捨てようとしていた新聞記事にあった、本書の著者インタビューを目にして以来、読まなければという気持ちが再熱していた。

「普通は言わないこと、思っていても、言わないことってありますよね。言葉が届かない領域もある。そうしたものも含めて、世界はできていると思うんです」

「新著の余禄『去年の雪』江國香織さん 」岐阜新聞 (2020.5.31)

 ノートに書き写して、下線を引いたのはここ。こもっていた生活のなかで、思っていたのが、まさに、こういうことだった。しだいに日記が書けなくなって(日記のコミュニティも五月で退会した)、というかただしくは、日記はいつものノートに、ときにがしがし書いていたから、この、ネット上での日記を書く気になれなかった、ということなのだけど、それは、自分のなかで「思っていても、言わないこと」(言えないことも、もちろん含めて)というのがけっこうある、ということに気づいた途端、それが膨らみだして、ぱんぱんになってしまったからだった。そして、そういうとき、わたしはフィクションの出番だ、と思うのだが、単純だろうか。その力を、つよく必要とする。

 二十三時半ごろ、半分くらいまで読んだところで、ととととと、と目を瞑ったままのあーちゃんが自室に入ってきた。抱っこをせがまれたので、そのまま眠ることにした。

短夜の読書誰は彼の日記  かおり

 
子どもの書いた、父の日の手紙。
あーちゃんの書いた、父の日の手紙

 昨日から風邪気味だったあーちゃんは、折り紙とお絵かきなど、ずっと何かをつくっている。なかでも、見ながら描いた「すみっコぐらし」の絵がかわいすぎて、なんども眺めてはにやにやする。折り紙は器用な夫が、つくりかたの冊子を見ながら、朝から何個もいっしょに折っている。ホットドッグ、ポテトフライ、さくらんぼ、金魚、襟のついたシャツ。すごすぎる。何も折れないわたしは、それを見ているだけだった。  

 今日は夏至で、新月で、日食で、しかもミッフィーの誕生日であるらしい(ツイッターで知った。ミッフィーって蟹座やったんや)……と思っていたら、父の日であったことに午後気づき、すこし慌てる。あーちゃんに夫宛の手紙を書いてもらうなどする。素直な気持ちで、材料ないとか、面倒くさいとかはかんがえず、たったいま食べたいものは何?と夫に聞くと、「そぼろ丼」という答。そこへさらに、好物のオクラを足すべく、スーパーへひとり出かける。好物の長芋も安かった。茹でたオクラとさいの目に切った長芋を、おかかとめんつゆで和える。カネコアヤノの「愛のままに」を台所で熱唱していたら、あーちゃんが近寄ってきて、「そのうた、あーちゃんもすきになってきた!」といって、また去る。天体の動きは派手、でもわたし自体は、しずかにただ凪いでいる。

半夏生占いで知れることなど  かおり

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