日記 | 三月八日(日)
わすれられないの、という文字が頭に浮かんだのは、今日の日付けのせいである。
(聞きおぼえのある文字列、と思ってあとから検索したら、サカナクションの曲名だった。レトロな雰囲気のMVで話題にもなった『忘れられないの』)
国際女性デーでもある今日は、むかしの知り合いで、ものすごく険悪な関係になってしまったひとの、誕生日だった。
ひとの誕生日を憶えるのが得意だと、わたしはつねづね言ってきた。でもそれは、なにか違うということを、思いはじめたのはここ数年のことだ。
憶えたくて憶えているわけではない。ただ、わすれたくても、わすれられないだけなのだった。
子どものころから、二十代半ばまでに顕著なのだが、友人などすきだったひとや、その感情にかぎらず、自分や身内と誕生日がちかいひとの、誕生日をずっと記憶している。
その話をかつて、友人とファミレスでしたことがある。「じゃあ、いつなのか?」と聞かれ、えーっと……と、いちばん古い記憶を思いおこしてみたら、小一、二ぐらいにすきだった子の誕生日が、口をついて出てきた(四月◯日)。
「それはノイズにならないの?」と、またべつの友人に聞かれたことがある。あまり自覚がなかったが、脳の負担には、そこまでなっていないと思ってきた。勝手に憶えてしまって、しかもそれをわすれないだけで、苦しいと思ったことはないと。
でも、ふと気がつく。毎年、今日だけはすこし苦しかった。ちょっと嫌だった、ということに。わすれたいと言うよりは、もうわすれたっていいのに、と思う。
これまで、自分と似た特性をもったひとに、出会ったことはない。どこかにはいるのだろうか(あ、林家ペーさん?)。
同時に今日が、ミスチルのVo.桜井さんの誕生日であることも、わたしの頭にはインプットされている。そう、このひととあのひとは同じ、ということも残っていく。中学のとき出会ったあの子と、勤務先のあのひとが同じ、という感じで頭にむすばれてしまうのだった。わたしには、同じ誕生日のひとって、結構おおい印象だ。明日も明々後日も、いまは何の関わりもなく、誕生日を憶えているだけのひとたちの誕生日である。
雨の日曜日。ずっと家に居る。昨日はうごきすぎたような一日だったので、ちょうどいい。日記本フェアでお世話になった、「H.A.Book store」さんの通販で買った、店主・松井さんの日記『hibi / どこにいても本屋』と、ずっと気になっていた柿内正午さんの『プルーストを読む生活 1 第一篇スワンからゴモラまで』が届く。納品書には「堀口文庫と同じ両方とも文庫本ですね、そういえば!」と書かれていて、ほんとうだ! と思う。おまけに付いていた冊子の内容が大充実。
週末は家事をほとんどしていない。夕飯は鍋焼きうどん(出汁は鍋の素なので簡単)。あまった鶏のむね肉で、明日のお弁当用に、レンジで叉焼をつくる。
録画したプリキュアを観て、あとは寝るだけのあーちゃんが、「わたしが、かあちゃんを、まもる!」とポーズをきめては、飛びはねている。いまわたしはプリキュアなのだと、高揚するあーちゃんを、さいしょは面白がって見ていたが、何かそういう台詞どうなのかな?と、慎重になっていきたい気もしてきた。キュアなにがしはしだいに、わたしと夫に攻撃を繰りだしはじめる。
おとぎ話では、名づけることは知ることだ。わたしがあなたの名前を知れば、わたしはあなたの名前を呼ぶことができる。わたしがあなたの名前を呼べば、あなたはやって来てくれる。
-ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』(岸本佐知子訳、白水Uブックス)
夫は娘といっしょに寝落ちした。読んでいる途中だった、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』(岸本佐知子訳、白水Uブックス)を自室で読みはじめ、なんだか落ち着かなくて、台所の床に移動しなおしてから、読了。愛の物語であった。
訳者あとがきにあった、〈『自分自身をつねにフィクションとして語り、読むことができれば、人は自分を押しつぶしにかかるものを変えることができるのです』〉というウィンターソンの言葉のとおり、〈《物語る》力〉について、このところずっと、考えている気がする。新刊、次作は、創作にちかいものを。短篇集をつくりたい。