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2020-03-11

日記 | 三月十日(火)

窓にかかる雨粒。

 昨日の天気がうそみたいな雨、大雨だ。

 あーちゃんを幼稚園へ送っていき(傘をさすとき、まだ足元がおぼつかない)、ミントティーを飲む。もうずっと、風邪の名残りか花粉症かで、詰まっている鼻に、ミントは良い気がする。

 窓をほそく開けて、換気。どの部屋にいても雨の音がしている。

 おもに台所で、ときどき布団に転がりながら、本をめくる。

 牟田さんの日記本に、IH(インテグレート・ヒーリング)を受けた、という記述があった。二〇一八年の夏、わたしもIHを受けたことがある。その日のことは、ブログに書いてあるのだけど、自分の日記本をつくる際に削ってしまった。わかりにくいかもしれない、説明できないな、と思ったからだった。

 膨大な文章からまず削ったのは、スピがかった内容だった。みてもらったホロスコープにどこか納得いかず、自分なりに解釈してみた、とか(しかもとてもながい)。もしかしたら、それが自分の日記の、おもしろみだったかもしれない。説明できないようなことが。

 いまも「マーマー」なことはすきだが、自然と距離ができてしまった。イベント等にも、予定が合わないことがかさなって、美濃市のお店へは行けないまま、まっきーちゃんの卒業を知り、さみしい気持ちにもなっている(また、どこかで会える気もするけれど)。

 スピ的なことに依存していた自分への反発があった。それでも今日も、満月だ、とか、水星が順行になったなぁと思っているし、何百回めかの占星術ブームが訪れそうだし、過去の自分と比べるならば、もっと自然にこういったことが、自分の生活に溶けこんだ、と言えるかもしれない。

 IHでの、自分のアファメーションを思いだす。「生活のなかで感じたことを、自分の言葉で表現します」というようなことだった。けっきょく、そのとおりのことをしている。

 説明できることなんて、おもしろくないから、日記とか小説がすきなんじゃないのか。ブログを更新する際、記事の内容を短くまとめる……というような欄があるのだけど、日記を説明するという行為に、かすかないらだちを感じて、昨日からやめてみた。

 ちょうど、TwitterのTLで、保坂和志さんと千葉雅也さんの対談が流れてきて、それが「小説を書くのに、説明は要らない」というタイトルだった(全三回の一回め)。千葉さんの『デッドライン』(新潮社)をさいきん読んだばかりで、文章にかんして「おや?」と思ったことが、保坂さんによって言語化されていると感じた。おもしろかった。『デッドライン』はいろんな方向に、かんがえられることがあって、もういちど読みたいと思っている作品。

 あーちゃん帰宅後も、PCをさわっていたら即うばわれて、そりゃそうだよな、と思いながら、ばしばしとキーボードを打つさまを眺めていた。そうしたら、待っていたメールが届いたことに気づき、さっと確認して、泣きそうになる(わたしはすぐ泣く)。ダメ元であることを尋ねたのだが、誠実でありがたい返事をいただけた。過去の自分が、いまの自分を応援してくれているのだと、思えるときがある。

 夕飯は豚のしょうが焼き、ほうれん草のおひたし、マカロニサラダ、昨日の残りのブロッコリー、味噌汁。お腹いっぱいになる。メールの返信を、送ることができずに就寝。

 

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