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2020-03-20

日記 | 三月十三日(金)

黄色いチューリップ

 あーちゃん、登園拒否。たまにあることなのだが、うまく対応できるときと、できないときがあって、今日は後者だった。

 いつも行きたくない理由を、まずは聞く。前は、仲のいい「☆ちゃんが○くんにたたかれた」からだった。その光景を見たくないという気持ち、わかるなぁと思った。そのときは働いていたので、幼稚園へいってくれないと困るものの、無理やり連れていくということは、わたしにはどうもできない。結果けんかの現場である、預かり保育の場所を、その日だけ利用しないという条件で、登園した(仕事は早退させてもらった)。

 今日の理由は「はずかしいで」。わたしもいっしゅん「え」、となる。どうして……?とつづけても、要領をえない感じだったが、「○○せんせいにあうの、はずかしい」と、あーちゃんは言う。はずかしいでは、お休みさせられないよ……と、しょうじき思う。

 それからは、どうすればいいのかわからないまま、はずかしくてもいいやん、かあちゃんもさ、いつもはずかしいよ。先生とか、あーちゃんのおともだちのおかあさんにあってもさ、なに話したらいいか、わからへんもん……などと、くだくだ話してしまって、なにも手応えはなく、勝手に疲弊してしまう。

 自室に引っこんでいたら、あーちゃんがやってきて「はやくようちえんいかんと、おともだち、かえってまう!」と言う。「え」、と思う。それで家から出ることができた。到着したとき、駐車場で「ようちえん、そとで虫がぶんぶんしとる。いきたくない!」と渋りだしたけれど(園は自然にあふれた環境にある)、うん、そうやねぇ……と無の表情になることしかできず、娘は「あーちゃんに、虫なんもせえへん。ぶんぶんしとるだけ」とひとりで納得して、登園していった。ちょっと違うんやないかな、と思いながらも、なにも言えなかった。

 そんなの、べつに理由がないときだって、あるよなぁと思う。自分だって、保育園いきたくないとき、あったもの。やはり、なんとなくいきたくない気分だったから、だったように思う。そのとき、送迎担当だった父親が、いちご牛乳を買ってくれた憶えがある。保育園の目の前で、停めた車のなかで、それを飲んでいたこと。その甘み。たったそれだけのことで、気持ちが切りかえられたことを思いだす。

 そして、それは大人になったいまも、あまり変わっていないのではないか。わたしはいつも決まって、同じ時間に同じことをすることが、急に苦しくなることがある。上司に体調不良で遅刻しますとか適当なことを言って、「ドトール」に寄ってカフェラテを飲んでからしか、会社に行けない時代があった。スイートポテトもよくいっしょに食べてたな。

 ほんのすこし、ずれるだけで大丈夫になるんだ。ほんのすこしだけで。

 だから、あーちゃんの登園拒否により、ふだんからのずれが生じることで、わたしもすこし楽をしていたのかもしれない。いまだに、登園の準備をするだけで、ふうふうと息ぎれしているのは、わたしだった。

 むしょうになにか煮こみたいと思う。白菜を買いにいったスーパーで、黄色いチューリップも買って帰る。花はいいな。

 帰宅しても、なにもする気がおきない。ただ台所にずっと居る。

 なぜ付箋を貼っておかなかったんやろうと思いながら、ふと読みたくなった言葉を求めて、ウィンターソン『灯台守の話』をふたたびめくる。いくつか、これだったと思う文章を見つけて付箋を貼って、ほっとしたような、やっと息ができたような心地になった。

 夕飯はポトフー(ソーセージ、白菜、玉ねぎ、じゃがいも、にんじん)。

 夜には楽しみにしていた、藤野可織『ピエタとトランジ〈完全版〉』(講談社)が届く。十三日の金曜日にぴったりではないか。こちらは以前、『おはなしして子ちゃん』という作品集に、短編のひとつとして収録されていて、そのときからずっと好きだった。当時、Twitterで翻訳家の岸本佐知子さんが(ピエタとトランジは)「百合版シャーロックです!」と呟かれていて、たしかに! と唸ったような記憶がわすれられない。

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