十一月二十四日(火) とりつみれくづれてふゆの鍋となる
三連休がおわった。昼、めちゃくちゃ久しぶりに丸亀製麺へ夫と行く。空いている時間をねらって、早めに行ったのに混んでいてすこし驚いた。セルフサービスの葱を取ることを、なんとなくやめる。
昨夜は腕の痛みが気になってきて眠れず、けっきょくロキソニンを飲んで寝たんやよね、という話を夫にしたら、「逆上がり禁止ね」と言われた。「急にする、ちょっとした動き」の危険性を説かれる。
あーちゃんがいないことの解放感をあじわいつつ、一日というながい時間を、連休後すぐ幼稚園で過ごすことのできる彼女を、すごいと思う。さいきん、「なんでようちえんっていくの?」という質問をよくされるけれど、答えかたがむずかしい。そのつど応じてはいるものの、どこか釈然としないものを感じている。
夕飯は簡単なものにしようと、鶏つみれの鍋をつくる。つみれの生地が柔らかすぎたのだろう。どんどん崩れて、出汁が白く濁ってしまったし、鍋底にも焦げついた(味は美味しかった)。鍋を煮ているあいだ、昨日の日記を書く。ほんとうは十月のことを、以前のように(『九月の日記』)書いておきたかったのだが、いま、記憶のあたらしいことを書かなければ、もう自分は日記を書かないかもしれない、という気がふとした。あたりまえすぎるのだけれど、頭のなかに書きたいことがあっても、書かれなかれば書いたことにならないのだ。書いてみて、やはり自分は「ただの日記」が好きなのだ、と思う。更新後、太田うさぎ『句集 また明日』(左右社)を読む。再読だが、胸が苦しくなるほど、好きな句ばかりである。
幼稚園から帰ってきたあとは、粘土あそびをすると決めていたあーちゃん。もくもくと型抜きをしては、型をとったあとの、へろへろした粘土のほうを見せてくれた。たしかに切り口が、きれいである。ひとまとめにして片づけるのを嫌がったので、できあがったものを夫がタッパーに入れていた。
ふたりのお風呂を待っているあいだ、『名句に学ぶ俳句の骨法 (上)』(角川選書)を読む。